昭和49年2月17日 特別奉修委員
(途中から)
ある者とない者は、親のある子とない子ほど違う、と教えて下さるんですけれども。親があるほどの違いを、日々実感させてもらうところに、親を頂いておることの有り難さというものがあるわけです。その違いを感じきらないところに、信心は頂いておっても良い信心が育たないのです。
ほんとに親のある子とない子ほどの違いということが分かったら、親があるからと言うて、なら有り難ずくめということじゃ決してない。ね。親があるからこそ痛い思いをしたり、または苦しい思いをしたりすることもあるけれども、しかしその、親のある子ほどの違いということが分かってくる時に、その事もまた有り難いということになる。
今、神前に出てから一番に感じさして頂いたことは、どうしてこの喜びが、いつどこからやってくるのだろうか、と自分の心の上に思うてみた。もうこれは、それこそ「弥陀より他に知る人ぞなし」と言われる空海の言葉ではないですけれど、私それをいつも思うです。「この喜びがどこから来るのだろうか」とこう思うんです。もちろん天地から来るのです。ね。
それこそ「弥陀より他に知る人ぞなし」天地の親神様より他に知られる方はなかろう。それは天地の親神様が下さっておられるのだから、天地の親神様だけしか御存知ないのです。ね。
それから、んな私の上に、んなら結構毛だらけなことがずーっと続いておるかというとそうではない。普通で言うならそうではい時にも、言わば有り難いものがどっからくるのであろうか、と思うくらいに頂けれるということは、「親のある子ほどの違い」ということが分かっておるからではないかと思うんですね。おかげ頂く時だけが、ほんと信心のある者とない者は、親のある子とない子ほどの違いというのではね、ちょっとおかしいですね。
昨夜あの、久継さんところのお祭りから帰ってから休ませて頂いたら、ちょうど、テレビがあの何か洋劇がありよりました。それはあの、何か戦争もんでしたけど、ほんのあの、ちょっと十分ばかりの間でしたけれども、何か、弟がその、兵隊を出す、二人とも兵隊です。弟の方が脱走して、何か山賊部隊のような中に入っておる。それでそれを聞いて、その兄さんが、単身一人でそこの山賊部隊に行って、説得して、その弟とその弟の友達、それに帰依しておる友達何人かをあの、そこから連れ出して、その部隊に帰って来る。
ところが、部隊に帰ってきたところが、その脱走兵だからと言うその、脱走して来たその兵隊だけは銃殺に処すということになった。それをあの、こう拡声器で発表しておるのを聞いてその、助けたい為に兄さんがわざわざその、韓国に行ってね。言うならばその、説き伏せて連れて帰ってきとるのに、殺されたと言うて、その兄さんがもう、それこそぐらぐらして、今度は、自分の方が今度は山賊部隊の方へ入る、ということなんです。
そして、その後で分かったことは、実際は銃殺されてない。ただ公表があっただけであって、実際は助ける為のその口実であって、あの脱走しておるから銃殺というふうにあれは決まってるのでしょう。だから、殺したことにして、実際はそのまあ、良か奴が他の所に隠してやっとった。ね。
だけど兄さんは、もう殺されたもんだと、銃殺されたものと思うて、自分の方が今度は、山賊部隊に入ってる。ところが、その山賊部隊の方へ入ったところが、今度は向こうの方では、自分達のその、銃殺された事を聞いて、「自分達の友達をお前が殺したんだ」と言うて、今度は、そこでまた責められるという、そこんところまで見たんですけどね。
おそらくまああの、また映画と言うのはそういうふうに、まあすれ違い映画とかね。そういうふうにあの、こうなっていくところがおもしろいわけでしょうけれども。今日、たただ今その事をも頂くんです。ね。
ですからそれが、親のある子ほどの違いということになっとったら、どんなにこういうふうにすれ違っておってもです、それを御神意と悟る時にです、わざわざ死地を選ぶこともなけりゃ、危険なとこへ行くことがない。その時点時点でね有り難い。そこに今日は、ここで言われる、もう素晴らしいタイミングの中に日々が有り難いということになってくるのじゃないでしょうか。ね。
それが信心のある者とない者は、親のある子とない子ほどの違いというのは、そういう時に、ね、親心がかえって深く分かるというところにです、あの、おかげが頂かれる。この喜びがどこからくるのであろう。この喜びがどこから湧くか分からんように、私の心の中に、まあその事を神様にお礼を申し上げねばおられない、まあ言うなら日々である。
そんなら、親先生の上に起きてくる事はもう、結構毛だらけなことばっかりじゃ決してない。ね。けどもその、どんなにすれ違うておるその時点を、親のある子ほどの違いということを思いますから、「親なればこそ」と思うて有り難い。だからその、おかげの方にしか進展して行かない。ね。
私、今日ほんとに改めて、親のある子とない子ほどの違いということをほんとに分からなければね、金光様のご信心のほんとうの有り難さは分からないと思う。都合良くなること。願った事が成就する。「はあ、やっぱ信心させて頂く親のある子とない子ほどの違いっちゃここですばい」と言うだけではいけない。ね。どういう中にあっても、親のある子ほどの違いということが分かる時にです、そういう、言うならばすれ違い的な、ほんとの意味でその、ような不幸の方へ不幸の方へなって行くようなことじゃなくて、あれが、その都度都度に、何かがあってもその都度都度に、有り難い方へ有り難い方へ進展して向上していくということになるんですよね。どうぞ。
明渡 孝